2026.01.29

【蔵元トーク】#78 山本(秋田県山本郡八峰町 山本酒造店)

こんにちは! 兜LIVE編集部です。


12月6日(土) 、『日本酒を蔵元トークとテイスティングで楽しむ』を開催しました。 今では国際金融都市といわれる日本橋兜町。 江戸時代には日枝神社の門前町として栄え、酒問屋で賑わっていた「日本酒の聖地」でした。 東京証券取引所において、上場時の5回の鐘撞は、酒の原料である五穀豊穣にちなんでいるとのこと。


平日は賑わうこの兜町に、休日にも人が集まってもらいたい。そんな願いから日本各地の蔵元を招き日本酒について学び、味わい、楽しく交流し、その魅力を、兜町の魅力といっしょに広め、お酒が地域と人をつなぐ場所...。そんな場所に発展するように願いを込めて、毎月1回日本酒セミナーを開催しています。


今回は、秋田県山本郡八峰町で「山本」を醸す山本酒造店代表取締役社長の山本友文さんをお迎えしての開催でした。山本さんは、商工会議所の勉強会や酒造組合でお話をされることがありますが、一般の方向けに酒造のお話をすることはほとんどないそうです。

さて、どんなお話をお聴きできるのか楽しみです。



◆はじめに

・最近、秋田といえば熊問題で有名ですが、都会の方は、秋田の人は熊を殺してかわいそうなことをすると話されますが、秋田の人にとってみれば命掛けなんです。


・私の自宅は、日本海から25メートル切り立った崖の上にありまして、地元では年配の方だとブラックジャックの家といい、もう少し若い方だと崖の上のポニョの家と呼ばれるような立地にあります。芝生の庭が熊の通り道になっていて、昨年は子熊だったのですが、今年は多分その子熊がゴールデンレットリバーぐらいの大きさになり、来年はどれだけ大きくなってしまっているのか心配です。友人の人気店だった飲食店も県外の方のキャンセルが相次いだほか、別の友人が古い建物をイノベーションして宿を始めたのですが、60組のキャンセルが出たと泣いていました。


・現在は安全な状況ですので、雪が降っていますがぜひ秋田にお越しください。


◆山本酒造店


・山本酒造店は明治34(1901)年創業です。正岡子規が34歳で亡くなったり、野口英世がアメリカに渡った年になります。


・蔵のすぐ後ろは山ですが、世界遺産の白神山地に湧き出る天然水を戦前でまだショベルカーがなかった時代に村人を動員してスコップで、酒蔵から約2km溝を掘って水道管を埋設して、湧き出た天然の湧き水を山の標高差120mを利用して酒蔵に流れ込むような工事をしました。




・昭和30〜40年代にかけて、北海道の夕張炭鉱に秋田の労働者がたくさん出稼ぎしていたので、造ったお酒をたくさん送っていたのですが、夕張炭鉱で100人弱が亡くなるといった大きな事故があったほか、石油にシフトしたことから炭鉱が縮小したため、お酒の出荷・生産量が激減してしまいました。


・現在、社員25人、季節雇用者1人の体制ですが、ほとんどが20〜30代で、女性が多いという非常に珍しい酒蔵です。地元の経営者などが酒蔵に来ると、こんなに若い人達はどこから来ているのかと驚かれるのですが、地元の八峰町や隣の能代市から通っています。




◆ 大学留学から社会人へ

・地元の高校を卒業してからアメリカ・オクラホマの大学に行き、そこでルームメイトになったアメリカ人と非常に親しくなり、彼がミシガン州出身で、ミシガンの大学に転校するから一緒に来ないかと誘われて、ミシガンの大学に転校しました。スーセントマリーというミシガン州の中でも一番北のカナダ国境に隣接する小さな町ですが、2月頃になるとオーロラが見えるようになります。オーロラが出ると、みんなで上下防寒スーツを着込んでビールを持って雪の上に寝っ転がりながらオーロラを見ました。-20℃くらいまで冷えるので、車のバッテリーを車から外して部屋の中に置いておかないと朝エンジンがかからなくなるくらい寒かったです。



・エンジニアになる予定で留学していましたが、東京の音楽プロダクションに入社してしまいました。私が夏休みで日本に帰って来たとき、姉は通訳の仕事をしていたのですが、ダブルブッキングで現場の1つに行けなくなりました。下手な英語を話す弟がアメリカから一時帰国しているので、ギャラなしで良いので代わりに行かせますということで、先方の許可の下、私が通訳として行きました。青葉台のレコーディングスタジオに行って2時間ぐらいボーカルの方とジャマイカ人の間に入って歌詞の意味などを通訳していたのですが、レコーディングが終わった後にみんなで中目黒の高級焼肉店に食事に行きました。好きなものを注文して良いと言われたので、メニューを見たら一番安いカルビーで2,500円でした。高校を卒業してアメリカに行ったので、私の中でのカルビーは一人前500円程度のイメージでしたが、非常に高級な美味しいお肉を食べさせてもらい、音楽業界はこういうものを毎日食べられるのかと羨ましく思いました。また。無給だと思っていたのですが、ディレクターからアルバイト料として2時間で20,000円いただきました。時給10,000円のアルバイトです!その頃、アメリカでは時間が空いている時に知り合いから頼まれて、住宅を解体するアルバイトをやっていましたが、時給4ドルぐらいだったので時給の高さにびっくりしました。


・その後、アメリカの大学に戻りましたが、卒業間際に以前バイトしたマネージャーから日本に帰って来たら遊びにおいでと言われ、目黒のオフィスに行ったら、さながら就職面接でした。当時、いろいろな海外アーティストとの交流が盛んになっていた時期だったこともあり、海外公演や海外アーティストが来た時の通訳ができて体力がある人間を必要としていたところ、私がそろそろ卒業じゃないかということで、声が掛りました。その際、以前の「時給10,000円、中目黒で美味しい焼肉が食べられる」ということを鮮明に覚えており、即答で受けました。それから31歳までの7年間、アーティストのマネジメントで国内外を飛び回っていました。


◆ 31歳で人生の転機

・私は山本酒造店の後継者ではなかったので、アメリカの大学に行ったり音楽の仕事をやったりと、好きなことをやっていました。私の父は三兄弟で酒蔵経営をしていたのですが、父は三男で工場長という肩書、長男が社長、社長の子供(男子)が生まれた時から後継者ということで、東京農業大学で醸造の勉強をして、専務として頑張っていたのですが、病気で急死してしまいました。


・その2年後に社長が癌で亡くなり、二男が繰り上げで社長になって、父が常務になったのですが、その二男も2年後に癌で亡くなり、その間、営業のエースだった営業部長も脳梗塞で亡くなり、父が繰り上げで社長になりました。長男が亡くなってから約10年の間に会社経営が迷走して、売り上げが大きく落ちてしまいました。父は経営者ではなく、あくまでも製造現場の人間だったので、資金繰りの経験もなく、どんどん赤字が増え、廃業できるうちに廃業したほうが良いという状態でした。


・私が正月に秋田に帰ったとき、父に酒蔵をどうするのか聞いたところ、もうどうにもならないから税理士と相談してタイミングを見て廃業するので、そのまま東京の仕事を続けたほうが良いと言われ、東京に帰りました。


・ある日、従業員から電話があり、「社長が酒蔵を廃業しようとしているのではないかと従業員がみな不安に感じているので、一度、我々の話を聞いてもらいたい」ということでした。従業員10名以上が酒蔵の近くにある公民館に集まり、「みんなで頑張って酒蔵を立て直せると思うので、帰ってきてもらえないか」と言われ、その時は即答しなかったのですが、私も山本家の直系で小さいころから亡くなった従兄と2人で酒蔵をやってほしいということを叔母、叔父などからも言われていたので、全く関心がなかった訳ではなく、残った従業員からも帰って来てほしいとのことだったので、音楽の仕事を辞め帰ろうと決め、父に話をしたところ、「自分の意志で帰って来るのであれば止めないが、酒蔵は本当に大変な状態だから、こちらから帰って来いとはとても言えない」という返答でした。私の中では帰る気持ちを固めていたので、32歳で音楽事務所を辞めて帰りました。


◆ 倒産の危機、背水の陣

・蔵に帰った23年前の状況です。経営が非常に大変な状態で、綱渡りのような資金繰りでした。


• 売上が激減し、大量の在庫を抱える。
• 完全なる赤字体質
• 経営戦略なし
• 設備投資なし
• 原価償却なし
• 製品企画力なし
• 現場に緊張感なし
• 金庫に金なし


・その頃の酒蔵の出荷比率は秋田県内9割、秋田県外1割と、蔵から車で30分以内のところでほとんどの商売をしていました。どんどん秋田も人口が減っていて、地元のみの営業では難しい状況でした。その頃の秋田の平均年収は362万8500円と全国45位、一方、東京は600万円以上だったので、これはやはりお金を持っている東京に売り込まなければいけないということで、東京の地酒専門店を一生懸命営業で回りましたが、なかなか扱ってもらえませんでした。


・その頃の山本酒造店は40年勤めている70歳の季節雇用のベテラン杜氏が酒を造っていました。全国の人気蔵のお酒の味などを杜氏にフィードバックしても聞いてもらえず、製造現場で手伝おうとしても、杜氏に製造現場に入って来るなと言われる始末で、悶々とした日々を過ごしていました。


・下の写真をみると、その頃の状態がよく分かります。現在は新しい建物になっていますが、高さは2階建てぐらいの築70年の土蔵で、精米機が並んでいました。横を通る国道に向けて「白瀑」という大きい看板でブランドをアピールしていたのですが、私が帰って来たときから白瀑の「白」という字が冬の季節風で吹っ飛んでなくなっている状態でした。



・蔵に来られたお客様は、この看板を見て本当に経営は大変なんだと感じたそうです。すぐに直せば良かったのですが、看板の修理にお金を使う余裕はない状況でした。


・ある日、一念発起して、自分で作ろうとホームセンターに行き、厚いコンパネ2枚を購入し張り合わせ、コピー機でプリントした「白」を見ながらフリーハンドで書いて、電動ノコギリで切り、ペンキを4回塗って、近所の大工さんに手伝ってもらい、取り付けました。







◆ よし、自分で造ったろ!!

・蔵に戻って5年目にメインバンクから運転資金の融資を打ち切られ、月末にお酒の売り上げよりも支払いが多い月には私と父で貯金を切り崩しながら、何とか従業員の給料を払っていました。貯金がなくなったら廃業ではなく倒産になる状況で、日々の激しいストレスで顔面神経麻痺を発症して入院しました。110日ぐらい入院しましたが、空いた時間に酒造りの本を読みあさりました。どのみち杜氏の給料は高くてもう払えず、最後はせっかく東京の仕事を辞めて戻って来たので、自分で造ることにしました。秋田の酒造業界では、すぐに「山本酒造店は杜氏に給料を支払えなくなったので杜氏を解雇して、東京から帰ってきた素人息子が酒を造るそうだ。白瀑は終わりだ。」という噂が広まりました。


・創業以来の銘柄の由来となった「白瀑」という滝は、蔵から車で3分のところにあります。子どもの頃は海で泳いだら、そのまま自転車で滝に行って海水を流してから家に帰るといった楽しい夏を過ごしていました。音楽業界にいたので、アーティスト写真のように、残った蔵人4名でカメラをセルフタイマーにして撮りました。



・37歳から酒造りを始めるというのは、非常に遅いタイミングです。酒屋さんに何十年というベテラン杜氏の酒と、酒造りの「さ」の字もよくわかっていない私の造った酒が並ぶと、お客様にしてみれば安心できるベテラン杜氏のお酒を買いますよね。


・そこで、蔵のお酒に説得力を持たせるために、蔵近くの休耕田を借りて、自分で草刈をして酒米作りを始めました。秋田では、まだ酒米を作っている蔵元はいなかったので、「山本は本気だ!米作りからやっている」ということをアピールできました。



・無農薬栽培でしたので、田んぼの水路に川からヤマメやサワガニが入って来ました。



・蔵の前の風景で、海から直線で300メートルです。周辺の田んぼは刈り取りが終わっていますが、蔵で栽培している秋田こまちは収穫が2週間程度遅いので、ちょうどこれから刈るタイミングです。




・お酒の売上げで設備投資に力を入れ、精米機での自社精米、酵母培養などいろいろやっています。




・酒造りを始めたものの、醸造のノウハウが乏しく、杜氏を解雇したため、他蔵の杜氏に相談・質問してもはぐらかされる状況でしたが、壁に突き当たると、秋田県で私より3年前に蔵元杜氏として酒造りを始めていた雪の美人の小林社長や県の食品研究所に相談することができました。


◆ 造る蔵元集団 NEXT FIVEの結成!

・そんなときに、毎年2月に発行される「dancyu(ダンチュー)」の日本酒特集で、「ど」というにごり酒が面白い商品だということで取り上げられました。多分これがお酒業界におけるメディアデビューだったと思います。



・dancyuを読み進めていったら、広島の「魂志会」という6蔵のグループが自社のお酒を持ち寄って技術交流していることが紹介されていました。


・私も他蔵と技術面を含めいろいろな交流をしたいと思っている時だったので、雪の美人の小林さんに秋田でもこのようなグループができないかと話をしたところ、新政の佐藤祐輔さん、一白水成の渡邉さん、春霞の栗林さんが同じようなタイミングで自分で酒造りを始めていたので、秋田市内の飲食店に集まっていろいろ飲みながら話していた際に、みんな同じような悩みを抱えていたので、定期的に集まって技術交流しようということで、「NEXT FIVE」というグループを結成しました。



・次世代の秋田の酒を牽引するということでネーミングしました。私はアーティストを売り出す仕事をしていたので、ブランド化するために、それぞれの蔵の代表銘柄のラベルを色分けしました。




・結成の目的は次の3つです。


1.技術交流
一子相伝の公開、共同醸造、利き酒能力の向上
2.市場の情報交換
販売店や飲食店の情報、消費者の動向
3.秋田の日本酒の復活
消費者イベントの開催、付加価値の向上


私の提案で、秋田市にあるアートギャラリーを借りて、アーティスト写真を撮りました。



・グループ結成後、以下のような効果がありました。
1.メディアでの露出が増え、認知度が向上
2.全蔵の酒質が大幅に向上
3.生産量、売上が急上昇
4.若い飲み手が増加
5.ベテラン杜氏が奮起
6.秋田県全体の酒質が向上
7.全国的に秋田の注目度が向上


・20年前は秋田県内90%、県外10%だった比率が、現在は生産量が4倍に増えたうえ、秋田県内30%、秋田県外62%、海外8%と秋田県の比率が下がりました。海外も時差のないアジア、東南アジア、オセアニアを中心に13カ国に輸出できるようになりました。


・生産量も400石から順調に伸びて、コロナで一時的に落ちましたが、現在ではコロナ前の生産量上限である1,600石に到達しています。



・4人だった酒造りも増員したほか、作業着も野球チームが酒造りをしている感じに見えたら面白いのではないかということで、野球のユニホーム似にしました。





・出来立てほやほやの山本酒造店のプロモーションビデオ(4分程度)をご覧ください。酒蔵の真上からドローンでの撮影もあります。


<プロモーションビデオ>


◆ 独自の子育て支援

・蔵のある町は人口5,000人ぐらいで、秋田は全国の中でも過疎化が進んでいますが、その秋田の中でもさらに過疎化が進んでいるところですので、人をできるだけ雇用し、できるだけ良い生活ができるようにということで、標準よりも高い給料にしています。


・また、町に子供が少なくて、活力がなくなりつつあるので、社員に子供が生まれたら、会社から10万円、その後、小学1年生から高校3年生までの12年間は毎月給料に1万円を上乗せしています。子供が3人いるスタッフが何人かいるのですが、給料に3万円分を上乗せしています。なぜ、小学1年生から子育て支援をしているかといいますと、小学1年生ぐらいになってくると、自分の意志で、例えばピアノをやりたいとか、野球をやりたいとか、何か習い事を始めるような年齢になって来ますので、そういった子供がやりたいことを会社が応援することを目的としています。ですので、自分の飲み代にするなということは、口酸っぱく言っています(笑)


・さらに、男性社員だと育休を取る人がいなかったので、奥様の退院に合わせて1週間の特別休暇を取得できるようにしています。


◆LABO and CAFE YAMAMOTOオープン


・酒蔵は、一般の方には公開していないのですが、一般の人が楽しめる施設を作りたいと考えていました。そこで、2023年3月にマイクロブルーワーリーを併設した「LABO and CAFE YAMAMOTO」をオープンしました。店内からガラス張りのマイクロブルーワリーが見えて、ここで実験的な酒造りを見学できます。また、ここで造った搾りたてのお酒をカフェのサーバーから直接飲めるほか、購入することもできます。

カフェの動画もご覧ください。



◆ お宿山本オープン


・カフェに行っても泊まるところがないのはもったいないという話をよくされていたのですが、海の目の前にある築90年の平屋の古民家を取得できたので、リノベして「お宿 山本」をオープンしました。日本海に面し漁港があるのですが、ここに五能線というローカル列車の鉄橋があり、ここに宿があります。JR東日本のポスターをたまたま見つけたので、スマホで撮影しました。


・酒蔵は一般の方には公開していませんが、お宿山本に宿泊したお客様は無料オプションで酒蔵見学ができます。


・最後に「お宿 山本」の動画もご覧ください。



オフィシャルサイトから予約を受け付けております。

お宿 山本


◆今回のお酒について

・山本の酒の特徴は、「香り控えめで、酸が効いて、キレのあるタイプ」です。お酒の糖分(グルコース)は平均の3分の1ぐらいしか入っていないので、ちょっとドライな感じがします。酸は平均よりも30%ぐらい多く、アミノ酸は平均よりも40%ぐらい少ないです。


・私も最初酒造り始めたときに、いろいろな県外のいろいろな米、酵母を使い、いろいろと組み合わせてみましたが、造り手もお酒の好みがあるので、自分はやっぱり量を飲むし、常に食べながら飲むので、香りは控えめな方がいい、酸があった方がいろいろなタイプのお料理に合わせやすい、一方でやはり甘いとなかなか食事と合わせるのが難しいということで、山本スタイルは、「香り控えめで、酸が効いて、キレのある酒」となりました。


・テイスティングする3種類のお酒の説明です。



▼純米吟醸 ミッドナイトブルー ヤマモト 生原酒(右)
・米は秋田県産秋田酒こまち、麹米50%、掛米55%精米、酵母は秋田の「こまちR-5」を使用。当社の酵母の中では比較的華やかなタイプです。


・この商品は今回だけの限定で、本来ミッドナイトブルーは黒いラベルに青字で山本と入っていますが、山本といえばドジャースの山本投手で、ワールドシリーズでMVPになった山本投手を祝ってドジャーブルーにしました。肩ラベルに山本MVPと入れたかったのですが、弁理士さんからやりすぎじゃないかと言われて、「Midnight Blue Yamamoto」にしました。


▼純米吟醸 バタフライパープル ヤマモト 生原酒(左)
・米は秋田県産亀の尾、55%精米、酵母は「秋田酵母No.12」を使用。この酵母は、定番商品「ピュアブラック」に使っているものと同じ酵母なので、香りのタイプはピュアブラックに似ています。11月に絞って、同月に出荷た限定酒です。


・亀の尾というお米は、戦前は北陸から東北まで栽培されていました。戦後アメリカから化学肥料を使うノウハウが入って来たのですが、やはり肥料を入れると稲の背丈も高くなって倒れやすくなったため、亀の尾が品種改良されてコシヒカリ、ササニシキ、秋田こまちが栽培されるようになりました。亀の尾は食用米で、炊いて食べると非常に美味しいです。当社のカフェでは、亀の尾を使ったカレードリアを出しています。


▼純米 天杉 火入れ(中)
・米は秋田県産美山錦、70%精米、酵母は「きょうかい1号酵母」を使用。


・「きょうかい1号酵母」は、現在、日本で入手できる最古の酵母で、百年以上前に兵庫県灘の櫻正宗で発見されたものです。それまでは、どの蔵も蔵つき酵母が入ってくるのを待ってお酒を造っていたので、腐造するなど資質が区々でしたが、この酵母をいろいろな酒蔵が使い始めてからは資質が安定して一気に産地が増えました。


・秋田杉の木桶で仕込んでいるので、少し杉のニュアンスがあると思います。この木桶に使っている秋田杉は昭和50年に伐採されたものですが、その時で樹齢が300年以上で、木材会社が丸太のまま所持していました。百年以上前の酵母とあまり磨かない70%精米のクラシックな酒米を現代の技法で造るとどうなるかということを実験的にやったものです。



・では、乾杯!



◆最後はみんなで集合写真

・毎回、恒例の集合写真です。多数の方にご参加いただき、ありがとうございました!



◆まとめ

・山本さんは、商工会議所の勉強会や酒造組合でお話をされることはありますが、一般の方向けにお話をされることはほとんどなかったということで、いつもにも増して多くの皆さんにご参加いただきました。

・機械工学から音楽関係、そして酒蔵を継ぐことになった波乱万丈の人生だったのですね。参加者の方々は、山本さんのお話を食い入るように聞いていました。あっという間の90分でした。


・ぜひ、東北建築優秀賞を受賞した「LABO and CAFE YAMAMOTO」で美味しい料理とともに、出来立てのお酒を飲んで、「お宿 山本」に宿泊して、夕日を眺めたいですね!


・山本さん、秋田県八峰町でお会いできることを楽しみにしています。ありがとうございました!


<イベント前には、翁が生涯大切にした佐渡の縁起石「赤石」にタッチして運気アップ!>



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