2022.04.18
しっかりした食感の白い蕎麦で有名な「蕎麦懐石 茅場町更科」。昼も夜もサラリーマンで満席になる人気店です。代表を務めるのは、2代目の近藤進一さん。なぜ白い蕎麦なの?近藤さんってどんな人?ランチタイムを終えたお店を訪ねました。
―― 近藤さん、こんにちは!
ようこそ、今日はよろしくお願いします!
―― 更科さん、この街の方々に大人気ですよね。
古くからある店ですからね。創業は昭和43年で、今年で54年目です。
うちの家系は皆蕎麦屋で、この店のはじまりは、私の父が麻布の二之橋で始めた蕎麦屋です。当時は「更科丸屋」の屋号でした。私が4歳か5歳のときに一家で茅場町に引っ越し、店も茅場町に移転しました。
茅場町での最初の店は、この近所にある木造の一軒家でした。老朽化に伴い、3年前に現在の場所に移転しました。
「更科丸屋」時代の外観。
―― この味のあるテーブルは、もしかして……
はい。テーブルやカウンターは、以前の店で使っていたものを加工して使い続けています。
―― 実は先ほど、こっそり日替わりランチをいただきました。
そうでしたか!昼は日替わりランチを数種類と単品メニューをご用意しています。
水曜日の日替わり「かつ丼セット」
夜は蕎麦懐石もあるので、接待利用のお客さんも多いですね。日本酒も常時10種類ほどご用意しています。新潟の日本酒をメインに、私が美味しいと思ったものを置いていますね。
コースの最後に打ちたての塩そばをお出しするのですが、それがまた日本酒と合うんです。
うちの一番人気は、鴨せいろ。鮮度の良い若い鴨と、熟成した鴨の2種類を使ったこだわりの品です。若い鴨は出汁が出ないので、出汁を出すために熟成鴨も入れているんですよ。
50年前、茅場町に移転してきた当時の看板
―― 更科さんは、なぜ白い蕎麦なのですか?
実は黒い蕎麦って、香りは良いけれど消化に悪いんです。簡単に言うと、蕎麦の実の皮ですからね。それで、私の父が胃に負担のない蕎麦を提供したいと考えたんです。
しかし、当時の製粉会社さんには白い蕎麦粉がなかったので、父と製粉会社さんが共同開発することになりました。試行錯誤の末できたのが、今使っている「御膳粉(ごぜんこ)」です。蕎麦の芯の部分だけを使っているので、胃にやさしいんです。当時白い蕎麦は珍しく、はじめは冷麦やそうめんと間違われたそうです。
夜は注文を受けてから打っているので、打ちたてを召し上がっていただけます。
店内の板場
―― 接待や激務で内臓が疲れているサラリーマンにやさしい蕎麦なんですね。
そうですね。蕎麦だけでなく、つゆにもこだわっています。普通の蕎麦屋さんは、本鰹、ソウダガツオ、煮干しなどを使いますが、そうすると生臭いつゆになってしまうんです。うちは本鰹一本、しかも本枯節(ほんかれぶし)から出汁をとるので、生臭さが一切ありません。出汁に合わせる「かえし」にもこだわっていて、合わせる醤油は関西のもの、みりんは12年モノを使っています。毎朝早起きして、頑張って出汁をとっています(笑)。
(※)本枯節:鰹節の表面にカビをつけた鰹節。鰹節の最高級品とされている。
さらに、季節ごとにつゆの配合を変えています。冬につくられた醤油は色がつきにくい一方、夏につくられた醤油は色がつきやすいので、夏のかけ汁は色を落とすために白醤油を入れています。
もり蕎麦やざる蕎麦のつゆは通年同じですが、かけ汁に限っては白い蕎麦の美しさを際立たせるために、色が濃くならないように気を使っています。
右が保温前のつゆ、左が保温中のつゆ。すこし保温の熱が入るだけでこんなに色が付いてしまう。いかに色を落とせるかを熟慮しているそう
白い蕎麦の美しさが際立つかけ汁
それと、私は和食もやっていたので、天ぷらや刺身にもこだわっています。まぐろは30年来お付き合いのある豊洲のまぐろ屋さんから買っていて、とても美味しいんですよ。
更科のまぐろ(近藤さん提供)
更科の天ぷら(近藤さん提供)
―― 近藤さん、どのような子ども時代を過ごされたんですか?
中学生の頃はバブル期で、蕎麦屋でも年商が億の時代でした。うちの店も本当に忙しくて、出前担当のお兄さんが8人もいました。私も学校から帰宅すると、毎日のように手伝いをさせられましたね。当時の出前は自転車で、蕎麦を10段くらい重ねて手で持って行ったんです。
―― よく漫画とかで見るアレですか?
そう、アレです。私もさんざん落としましたよ~(笑)。配達先は証券会社さんで、昼も夜も頻繁に会社に入りました。あの頃の証券会社さんは、本当にギラギラしていました(笑)。
おなじみの手持ちスタイル(近藤さん提供)
専門学校に入ってからは、他の店でもアルバイトしましたけれど、それまではずっと家の手伝いをしていましたね。
その後、調理師専門学校に進みました。やっぱり私、料理が好きだったんですよね。若い頃は洋食に興味があって、卒業後は当時有名だった広島のフレンチレストランに就職しました。当時は今と違って、職人は後輩に自分の技術を教えないので、先輩のつくったソースの味はお客さんが皿に残したソースを舐めて知るんです。
―― 昔の料理ドラマによくある、あの光景ですか!
そうです。そうやって、先輩の味を覚えていくんです。味覚はずいぶん鍛えられました。今も料理を食べれば何が入っているか分かるので、和食と洋食なら食べたものは再現できますね。そんな感じでずっとやってきたので、うちでお出ししている料理の調味料は目分量なんです。
―― 更科さんを継ぐつもりはなかったんですか?
若いころは、継ぐことはあまり考えていなかったですね(笑)。小さい頃から蕎麦屋を見て育ってきたけれど、朝から夜遅くまで働いてすごく大変だと思っていましたし、正直当時は蕎麦屋が嫌いでした。その影響で、洋食レストランが華やかに見えたんです。
欄間も以前の店から持ってきたもの
しかし、広島で働いて2年が経ったころに父が倒れまして。当時うちは茅場町店のほかに御徒町店もあったので、私が手伝おうと東京に帰ってきました。22歳か23歳のときです。幸い父は快復しましたが、私はそこから蕎麦の道一本です。
―― 職人歴は31年になるんですね。職人として大切にしていることはありますか?
添加物を使わずに、体に良いものだけを使うことですね。私自身、日頃から添加物をとりません。コンビニのお弁当も薬の味がするので食べないですし、たまに外食で化学調味料を使った料理を食べるといつまでも口の中に甘さが残ってしまってダメですね。
―― 近藤さんは、茅場町2丁目・3丁目青年部に所属しているんですよね。
はい。青年部は35歳くらいからやっているので、かれこれ19年ほど続けていることになりますね。その他にも、「日本橋消防団第7分団」もやっていて、2年前からは部長も務めています。みこしの実行委員をやっていて、組み立てと解体、祭り当日の運営をしています。
日本橋料理飲食業組合の青年部「三四四会」の一員として、子どもたちへの食育活動などもやっていますね。
―― ものすごく街に貢献されていますね!幼少期から現在まで、この街の変化をどうご覧になっていますか?
昔は本当にうるさい街でしたね。デパートの紙袋に一億円入れて歩いていたり、台車に株券を山積みにしてガラガラ歩いていたり。ギラギラしていて、すごい時代でした。
昔はスーツを着たサラリーマンばかりだったけれど、今は私服の若者も多くなりましたね。街自体が若返っていて、良い方向に向かっていると感じています。昔のようなギラギラした感じとは違う活気のある街になっていったらうれしいですし、もっと観光客が呼べる街になっていって欲しいですね。
東京駅から茅場町まで続いている「桜通り」をご存知ですか?現在、東京駅から昭和通りまではライトアップされていますが、兜町と茅場町の桜はまだライトアップされていないんです。今後、その区間の桜もライトアップできるように働きかけていきたいと思っています。
―― とても頼もしいです!この街のこれからも、更科さんのこれからも楽しみですね。
そうですね。これから外国からのお客さんも増えるでしょうし、楽しみです。うちは30年以上通ってくれている常連さんもいて、当初は若手だったのに今では立派な役員さんになっている方も多いんです。お客さんたちの「美味しかった」が、一番の励みになっていますね。これからも体に良いものを提供しつづけて、より居心地のいいお店にしていきます。
茅場町更科の近藤さんにお話を伺いました。いかがでしたか?終始笑顔でやさしく丁寧にお話を聞かせて下さった近藤さん。常連さんたちは、白い蕎麦や料理はもちろん、近藤さんのお人柄に癒されたくて通っているのかもしれません。近藤さん、お忙しい中ありがとうございました!
東京都中央区日本橋茅場町3-13-4
03‐3669‐8741
営業時間:11:00-14:30(L.O 14:00)/17:00~21:30(L.O 21:00)
定休日:土日祝
(ライター:安藤小百合 )
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